第一次世界大戦の形成のターニングポイントとして知られるイタリアの裏切り。戦争が始まってから降伏したように見えますが、実は違うのをご存知ですか?
1882年にドイツ, オーストリアと三国同盟を締結したイタリアですが、第一次世界大戦が始まる頃にはすでに敵国となるフランスと同盟を結んでいます。
その要因には三国同盟内の、「内輪揉め」と植民地問題における「目的の変転」がありました。
〈三国同盟内の問題である、「未回収のイタリア」について〉
北イタリアに位置するヴェネツィアは、1797年のカンポ・フォルミオ条約によりオーストリアに支配されていました。イタリア統一運動が行われたことによりヴェネツィアの多くもイタリアの一部になりましたが、南チロル地方をはじめとする旧ヴェネツィア王国の一部などが依然としてオーストリアの支配下に置かれていました。
イタリア国内ではイタリア系の民族の居住する地域やイタリア語を話す地域をイタリア領にしようとする動きがあり、こうしてイタリア王国が領土だと主張したもののうち、イタリア統一戦争後もオーストリア領として残った土地が「未回収のイタリア」です。
イタリア世論における反オーストリア感情や、イタリアとオーストリアの対立に繋がります。
〈イタリアの三国協商各国との繋がりについて〉
まず前提として、当時イタリアはチュニジアに利権を持っていました。
1881年にフランスとチュニジアの二国間で結ばれたバルドー条約で、フランスがチュニジアを保護国とすることを定めます。防衛及び外交における権利を得たフランスですが、以前よりチュニジアに進出を測っていたイタリアはこれに反対。そのフランスと対抗するために、以前よりフランスの敵国であったドイツとオーストリアに接近し、三国同盟に参加します。
つまり、チュニジアを巡るフランスとの対立により、イタリアは三国同盟に加入しました。
その後イタリアはアフリカにてエリトリアやソマリランドなどに植民地を拡大しますが、想定外であったエチオピアの原住民への敗北により、チュニジアの必要性は増します。
そんな最中の1878年のベルリン会議でまたもイタリアの外交関係を揺らす出来事が起きます。
因みにベルリン会議はロシアとオスマン帝国の戦いである露土戦争のによって起きた国際紛争を解決するための会議です。敗北したオスマン帝国は多くの領土を失います。
そこ でフランスは、かつてオスマン帝国の領土であったギプロスをイギリスの植民地として認める代わりに、イギリスにモロッコとチュニジア地方の占領を認めさせました。チュニジアに利権を持ったイタリアはもちろん反対、フランスは代わりに隣のトリポリタニアを占領するように誘いをかけます。
イタリアの世論においてもトリポリタニアを占領する意見が強くなります。するとチュニジアの必要性は無くなるため、同時にイタリアが三国同盟に参加した理由も無くなります。
これによりイタリアとフランスは急激に接近。1902年に伊仏協商を結びます。これがイタリアとフランスが同盟を結んだ訳です。
少し余談ですが、イタリアは真剣にトリポリタニアとキレナイカを併合するため、1911年にオスマン帝国に宣戦布告、伊土戦争(イタリア=トルコ戦争)を起こしています。
第一次世界大戦が勃発した翌年の1915年、イタリアはブレンネル峠を境界とする南チロル、トリエステを含むイストリア半島、ダルマティアの一部、アルバニアのヴァロナ湾、オスマン帝国領小アジアの一部など、最初に紹介した未回収のイタリアをはじめた地域の占領を条件に三国同盟を脱退。三国協商のフランス・イギリス・ロシアと対独参戦を協定したでロンドン秘密条約を結びます。
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