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karinyamada7102005

バルカン戦争における外交関係について

更新日:2022年1月30日



 オスマン帝国の衰退の最中、非常に重要な場所に位置したことから列強の複雑な思惑が交差し、『ヨーロッパの火薬庫』とまで呼ばれたバルカン半島。それらが抱える問題を「バルカン問題」と呼びますが、その中でも諸問題を刺激し、列強の対立をより強めたバルカン戦争は大きな出来事であったと言えるでしょう。


 具体的にはどのような国際問題を抱え持ち、どのようにして列強の影響が強くなっていったのでしょうか。 




(第1次バルカン戦争における勢力図)


 事の長期的な要因は、それまでバルカン半島を含む地中海周辺を支配していたオスマン帝国が、衰退したことにあります。その始まりは17世紀にありますが、露土戦争の敗北やベルリン条約の締結によって領土を大幅に失うと、列強から「瀕死の病人」と見なされるようになります。


 19世紀になるとオスマン主義に変わる国家理念として「パン=イスラーム主義」を打ち出した元首、アブデュルハミト2世はスルタン=カリフ制を用いて宗教による統合を目指していました。するとその専制打倒と立憲制復活を目指した「青年トルコ」の運動が始まります。


 1908年、青年トルコはエンヴェル=パシャらとともに『青年トルコ革命』を起こし、オスマン帝国は混乱に陥りました。独立欲求を抱えた国々は、これを好機とみなし様々な行動を起こします。

 そうして起こった主な三つの出来事は以下の通りです。



・ブルガリアの完全独立宣言

 パン=ゲルマン主義を掲げ、バルカン半島を巡ってオスマン帝国と対立する仲であるオーストリア=ハンガリーの後ろ盾を得た上で独立を宣言。翌1909年、オスマン帝国はロシア帝国との戦争の賠償金を支払う条件でブルガリア政府と議定書を交わし、ブルガリアは名実ともに独立国となります。


・オーストリア=ハンガリーによるボスニア=ヘルツェゴビナの併合

 ベルリン条約で既に統治権を得ていたオーストリア=ハンガリーが、青年トルコ革命による混乱に乗じてボスニア・ヘルツェゴビナ両州の併合を宣言。ボスニア地方に多数のセルビア人が居住していたことからセルビア王国は強く反発します。

 オーストリア=ハンガリーのパン=ゲルマン主義に対して、パン=スラヴ主義を掲げるロシアはセルビアを支援し、一時は戦争になりかけましたが、ドイツが強くオーストリア=ハンガリーを支援する意志を見せたことや、ロシアに日露戦争やロシア革命の打撃が未だ残っていたために当面は免れます。

 しかしながら、この出来事はセルビアをはじめとするスラヴ民族の反オーストリア感情を強固なものとし、敵対するロシアに接近する要因の一つとなりました。


・伊土戦争(イタリア=トルコ戦争)

 元より利権を所持しており、チュニジアの必要性を強く認識していたイタリアでは、フランスの巧妙な外交戦略によってその隣に位置するトリポリ・キレナイカを占領すると言った声が高まっていました。

 そんな中トリポリ=キレナイカを領有していたオスマン帝国が青年トルコ革命によって混乱状態になります。1911-12年にかけて伊土戦争が行われ、イタリアが勝利。ローザンヌ講和会議で多数の領土を獲得すると、バルカン諸国の独立欲求をさらに高揚させる結果となりました。



 そのような状況の中、バルカン半島における影響力を拡大したいロシアと、独立を果たしたいバルカン諸国の利害が一致し、1912年にロシアが主導するかたちでセルビア、ブルガリア、モンテネグロの南スラブを中心とし、他にギリシャが参加するバルカン同盟が成立します。


 オスマン帝国対バルカン同盟の対立構造が成立すると、伊土戦争の最中にあったオスマン帝国に宣戦します。こうして始まったのが『第一次バルカン戦争』です。


(第2次バルカン戦争における勢力図)


 敗れたオスマン帝国は、13年のロンドン会議にて領土分配が行われます。イスタンブールを除く欧州領土とクレタ島を失い、500年にもわたるイスラムのバルカン支配が幕を閉じます。


 その際に、民族運動が遅れていたマケドニアはセルビアとブルガリア、ギリシャの三国に分割されますが、そのマケドニアの領土が要因でセルビアとブルガリアは次第に対立するようになります。ブルガリアはパン=ゲルマン主義であるドイツおよびオーストリアの支援を受ける形でセルビア、モンテネグロ、ギリシャに宣戦布告。ロシアは依然とバルカン同盟の三国を支援しました。


 第一次バルカン戦争でも、ドイツおよびオーストリアはオスマン帝国を支援していましたが、第二次バルカン戦争に至っては、バルカン半島においてパン=ゲルマン主義とパン=スラヴ主義が衝突する構造がより強くなります。


 オスマン帝国とルーマニアもブルガリアを攻撃します。


 エンヴェル=パシャが指揮するオスマン帝国軍が1ヶ月をかけてブルガリアを破り、ブカレスト条約を結と、ブルガリアはエデルネと東トラキアをオスマン帝国に、黒海付近の南ドブロジャをルーマニアに、マケドニアの北部をセルビアに、マケドニア南部をギリシャに割譲しました。


 また、ロシアを背後に抱えたセルビアとの戦争における敗北により、ドイツ・オーストリアに接近します。これがのちの第一次世界大戦の構造にも繋がることとなります。




〈用語集〉

・パン=イスラーム主義

イスラム世界の統一を目指す思想とその運動

・スルタン=カリフ制

オスマン帝国の政治的有力支配者であるスルタンが、イスラム教最高権威者であるカリフを統合する制度


・青年トルコ革命

オスマン帝国末期の立憲革命

・パン=ゲルマン主義

ドイツ帝国を中心に国外のドイツ民族を統合し,世界帝国を建設しようとする思想

・パン=スラヴ主義

スラブ語を話すすべての民族の連帯と統一をめざす思想運動

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