top of page
karinyamada7102005

プロイセンは何故普仏戦争におけるフランスの和平交渉に応じなかったのか



 明治政府も大きな関心を持ち、しばし「日本人が初めて目にしたヨーロッパ列強同士の戦争」の別名で呼ばれる普仏戦争。その関心は欧州諸国も同様でしたが、周辺国の予想では結果と異なりフランスが勝利すると考えられていました。

 そのような状況の中、プロイセンはナポレオン3世を捕虜としたセダンの戦いの後にフランスが提案した和平交渉を拒否しています。より多くの利権を得ることはもちろん目的の一つですが、その背景にはプロイセンの戦争に勝利する自信がありました。


 「プロイセンは普仏戦争の各戦いにおいて連勝していたから」と片付けてしまわれがちですが、これにはきちんとした根拠が存在します。




 まず、プロイセンとフランスには準備に大きな差がありました。


 スペインの王位継承を巡り二国間の緊張が高まる中、1870年にフランスの非礼を受け、外相のビスマルクは意図的に内容を誇張し、フランス革命記念日である7月14日に国内外に発表。ヴィルヘルム2世が静養していたエムスから発信されたことから「エムス電報事件」と呼ばれるこの出来事は、以前からドイツ統一のためフランスと戦争をする必要性を感じていたプロイセンが、フランスからの宣戦布告を誘導するものでした。実際に、ビスマルクは「統一ドイツが出来上がるためには、その前に普仏戦争が起こらねばならない事は分かっていた」と発言しています。


 当時の常備兵で構成されたフランス軍は、数が少ないが素早く動員できるその特性を活かすためエムス電報事件の5日後に早くも宣戦布告。一方プロイセンの兵は徴兵制によって構成されており、数は多いものの動員に時間を要するのが問題でした。しかしながら、予め入念な準備をしていたプロイセンはその一環として鉄道や道路の建設も行っていたため、僅か18日で38万もの兵を用意します。

 フランスの1本に対し、6本もの鉄道を所持していたプロイセンは、この兵士輸送能力で軍の機動力を大きく発展させ、最終的に120万人の動員可能の兵士を用意します。



 また、普墺戦争においてオーストリア側についた南ドイツ諸国がプロイセン側で参戦します。


 ナポレオン3世は普墺戦争ののちにオーストリア側となり戦っていたドイツ南部のバーデン大公国、ヴュルテンベルク王国、バイエルン王国を集めてマイン同盟を結び、プロイセンに対抗します。

 しかし普仏戦争の開始をきっかけにドイツ人としてのナショナリズムが高揚、フランスが宣戦布告した事実や、プロイセンが連戦連勝を収めていることなどを受け、南ドイツ諸国はドイツ連邦側につきいます。



 最後に、オーストリア=ハンガリー帝国がフランスに加勢しない可能性が高かったことが挙げられます。


7年戦争から関係が悪く、ドイツの帝国の中心を巡り普墺戦争で争ったオーストリアはプロイセンと敵対しています。一見するとフランスに加勢し、プロイセンを中心としたドイツ帝国の成立を阻止するように考えられますが、外交的な理由からオーストリアは戦争に参加しませんでした。


 メキシコにおける利権の拡大を図ったナポレオン3世は、メキシコの自由主義革命に介入します。その過程で1864年にオーストリアの皇帝、フランツ=ヨーゼフ一世の弟にあたるマクシミリアンをメキシコの皇帝として即位させ、メキシコ帝国を樹立します。しかし現地民の反発が強かったりと計画はうまく進まず、フランス軍は徹兵しますが、取り残されたマクシミリアンは処刑されてしまいます。ナポレオン3世の計画の最中に優れた海軍の軍歴を持ったオーストリア大公を失ったことからフランスとオーストリアの外交関係は悪化しており、プロイセンは対オーストリアに9万人の兵を温存するも行使することはありませんでした。

Comments


bottom of page